鈴木 功:字々俳諧
括弧内は、
タイプデザイナー日記に掲出した日付けです。併せてご覧ください。
2005年3月
茶門の句は評しにくい。なぜなら、日記と組みになっており、句の背景をインプットしたのちに読む羽目になるからだ。
しかしながら、俳句のもとである「連句」の「発句」が「俳句」として独立したのは近世以降であり、また、多くの和歌や句が日記、随筆の中で詠まれてきたものであるから、そういった意味では「俳句はもともとこうだったんだよ」と茶門のしたり顔がうっすらと句の向こうに見えてやっかいである。とは言え、今は今、今のやりかたで斬らせていただこう。
まず、基本的なこととして「や」の位置。
「荷」に「ああ、やれやれ」という気持ちも分からなくはないが、ここは大きく「引越」に対しての方がよいだろう。また、「荷」と「片隅」の関係も鮮明になる。
さらに、
は、どうだろう。幾分軽くはなるが、引越の片付けがひとしきり済んだあとの疲労感と安堵感を可憐な梅の花が受け止めている。しかも「梅の花」を句末にそっと置いた分、片付けが済んだ後の空間が想起されはしないだろうか。異論反論あるだろうが、小生としてはこの「軽み」が俳句的に洒落ていると思う。
と、ここまでぶつぶつ批判してきましたが、褒めより批判となるのは、自身が未熟な証拠ですからーっ、残念!(評釈:木雲 2005.3/9)
俳句に限ったことではないが、「いま改めて見てみると良いもの」が世の中にはよくある。映画、絵画、文芸などの芸術関連から食べ物、果ては人間まで。
掲句もしかり。字々俳諧が更新され、拙評を読んだのちそのすぐ足下にあった。実際、この句はそう強烈な何かを持っている訳ではない。しかし、少しの暇を経て、ジワリと何かが滲み出ていた。眼を凝らしよく覗いてみると、その滲みの正体は「温度」だった。
外では昨日降り積もった雪が解けだし、青空のもと冷から暖へ移っていく。一方内で握り飯を頬張る作者。作りたてか作り置きかは分からないが、握り飯は冷えていくもの。
窓ガラス一枚隔てたこちらとあちらでの、逆方向のゆるやかな温度の変化。この「ゆるやかさ」加減が、心地よく響いたのである。
別に大した感動でもなく、大した事件でもない。ほんの日常の些事に過ぎないが、そんなものが文「芸」として成り立ってしまう。俳句の醍醐味である。(評釈:木雲 2005.4/22)
2005年2月
2005年1月