2002年12月
初雪が降った。思いもかけない大雪に二重の驚き。藁屋根の家には少し早め雪が積もり、寒いながらもしばし足を止めて眺めている。その家が、主を失い、傾きかけたものであるなら、なお一層情趣をそそる。
しかし日記を見ると、詠まれたのは東京。普通「藁屋」は見かけない。とすると、作者は自身の住まいのことを言っているのではないか。愛着と自嘲を混ぜて、軽く、明るく。ここで思い出されるのが、小林一茶の次の有名句。
これもまた、自宅を眺めた明るい自嘲。しかし、両者をよく眺めてみると、そのスタンスに大きな違いがあることに気付く。
一茶の句は、五十歳を過ぎ、住まいがようやく故郷に落ち着いた頃に詠まれたもの。江戸での漂泊、異母弟と父の遺産争いなどを経、その半生を振り返っている。実はこのあとも不運・不幸は続くのではあるが、人生のひとつの到達点が「まあ」というため息に示されている。
一方、作者の句は、前を向いているとまでは読み取れないが、後ろは決して見ていない。藁屋はあくまで仮住まいなのだ。作者は、まだ三十代半ば。藁屋がこれから板屋になり、石屋になっていくこともあるのであろう。(評釈:木雲 2002.12/21)
先日、横浜の木雲亭を何年ぶりかに尋ねた折、次のような添削をいただいた。
なるほどこちらのほうが美しい。「藁の家」の音の柔らかさ、名詞止めによる余韻。初雪を詠むにふさわしい。
(鈴木 2002/12.23)
2002年11月
2002年10月
作者は、おそらく零余子というものを、そしてその旨い食し方をつい二三日前、誰かから初めて教わったのであろう。その名付けのよろしさ、頭の中を駆け巡る風味に取り憑かれていた矢先、ふとした拍子に念願の零余子を見つけたのだ。
零余子は、山芋類の蔓と葉の際にできる肉芽。炒ったり、塩茹でにしたり零余子飯にしたりして食べる。作者は一個見つけた途端、用事も忘れ夢中になった。蔓をつたって、そしてまた別の蔓に渡りとしていくうちに、あれよあれよとポケット一杯になった。「なんだ、こんなところに!」と、知らなかっただけで目と鼻の先の雑木林にあったという驚きと、「一刻も早く食したい」という作者の興奮が、句からありありと伝わってくる。
しいて言えば、感余って、上五中七と下五がどちらも強く、視点が散っている。どちらかを控えた方がむしろ、玄関や台所の様子、さらには零余子を炒る香ばしい匂いがよく伝わったか。 (評釈:木雲 2002.10/28)