一緒に風呂に入っていた息子が「そうだ、あれ見せるの忘れてた」と湯舟から立ち上がった。カバンから出てきたのはハートのかたちをした石ころ。今日が結婚記念日だということを彼は知らない。ちょっと気恥ずかしいような偶然だが、記念日らしいことを何もしなかっただけに、公園で拾ってきたというこの小さな石ころには参った。
一緒に風呂に入っていた息子が「そうだ、あれ見せるの忘れてた」と湯舟から立ち上がった。カバンから出てきたのはハートのかたちをした石ころ。今日が結婚記念日だということを彼は知らない。ちょっと気恥ずかしいような偶然だが、記念日らしいことを何もしなかっただけに、公園で拾ってきたというこの小さな石ころには参った。
雨が多かった10月とは対照的に晴天日の多い11月。来年に向けて頭の空気を入れ換える。書体制作と読書。白川静『桂東雑記』。露伴にかぶれ、湖南に私淑した青年期を語る。方法論と体系を重視する白川博士の面目は、内藤湖南から躍如していた。小室等『人生を肯定するもの、それが音楽』。人との出会い、和と洋のぶつかり合い・融合について。武満徹の「和と洋を混ぜるのではなくて、異質な領土を対置させ際立たせるべき」という主旨の発言に注目した。人生を肯定するもの、それがデザイン。
息子の自転車練習。ペダルの漕ぎ出しからブレーキをかけるところまで短い距離ではあったが初めて出来た。彼は補助があったと思っていたようで、やったなと声をかけると「いまのは偶然だと思う」となんとも気弱なコメント。案の定二度目の成功には結びつかなかった。
めずらしく早めに床についた息子が大量に嘔吐。身の節々が痛いと言うのでおそらく風邪だろう。書体のアイデアスケッチ。次期プロジェクトの構想を練る。
問い合わせと打ち合わせの集中日。すべてメールで済ませられるというのは便利であるのと同時に淋しくもある。年内に顔を合わせたい人が何人かいるのだけれど、それをためらわせるほどにカレンダーが埋まりはじめている。
スパムメールの約85%がアメリカ発なのだが、迷惑メールにかぎらず、アメリカが世界に及ぼしている憂鬱の度合いもこの数字に近いのではなかろうか。
麻布十番の酒場でタイポグラフィ白熱バトル。触らぬカミになんとかでマスターもカウンターの端にひいていました。
勤労感謝の日。家族で近所の韓国料理屋へ。終日書体制作。
快晴。日当たりのよい妻の作業部屋と北側にある私の仕事部屋では体感五度くらいの差がある。拾ってきた枝や松ぼっくりが置いてある妻の作業場を鳥の巣に、書棚に囲まれ鬱蒼としている私の仕事場を蛇の巣に喩えてもいい。巣穴を出る時期を窺う蛇。いましばらくは冬眠。
百日紅から山茶花までの間に見た風景の記憶が欠落している。立ち止まりよそ見する余裕がなかったせいだろうが、ときおり「未来圏から吹いて来る透明な風」を感じられたのが救いではある。来年はこの風を胸いっぱいに吸い込みたい。終日書体制作。
私が「ことばの泉」と呼んでいる「もっとことばを!」のストックが目減りしてきた。この二ヶ月ほどほとんど本を読んでいないのだから当然といえば当然なのだが、最近では日記を書いたあとにめぼしい本をあたって語句を探しているので時間がかかってしょうがない。『ロダンの言葉抄』をふたたび読みはじめる。この人の言葉は力がありすぎて、洞窟生活に慣れた目には少々まばゆい。
冬の雨。石油ファンヒーター初稼動。終日書体制作。梅干しと玄米茶。
書体制作中にうっかり来てしまったセールスマンまたは布教活動者は可哀想だ。インターホンがないので玄関のドアを開けざるを得ず、鬼の形相で出てきた私を見て、二三歩後退し全身硬直する女性が後を絶たない。こんな人もいた。後退・硬直したのち、しぼり出した第一声が「奥さまでしょうか」
岡澤、小澤、竹下三氏とともに丸明オールドの片岡朗さんを囲んで新宿で一杯。リチウム電池とまではいかないけれど、アルカリ電池くらいにはパワーアップできたかな。電池の入れっぱなしが良くないように、狭い殻に籠りっぱなしというのはやはり危険だ。電源オフの状態でも自然放電するし、マンガン電池の場合、液漏れで本体すら壊しかねない。
文字、多摩美、文字。持ちの悪いマンガン電池か擦り減ったタイヤのような状態である。
小さなメディアが届いた。A5サイズ中綴じ12ページの冊子で、先月の向島石碑めぐりの口上と感想が記録されている。表紙に「しをり」とあるが、正しくそれはあの遠足の気分を盛り上げてくれた栞のたたずまいをしている。私の戯れ文も掲載されていて、それがなんというか実に嬉しい。これまた遠足の栞に自分の文章が載ったときの嬉しさによく似ている。「小さなメディアっていいですよね」と別れ際に話したのはちょうど三年前のこと。冬の雨がそぼ降るこんな日に、古賀さんのもとからそれが届くなんて、しかもこんなに薄くて柔らかいものに、あんなに大きな石碑の話しが載っているなんて。出来たての栞を繰るうちにトナーで手が黒くなってしまったのは、採りたての拓本に見立てた趣向だろうか。表紙を飾る酒井抱一描くところの筆の化身がにんまりしているところをみると、あり得ない話でもなさそうだ。吹けば飛ぶよなメディアだからこそ、ユーモアと勇気を同時にのせられるのである。
去り際のことば美し初時雨 茶門
グラフィックデザイナーに好きな画家をあげさせれば、マチスとクレーが上位に食い込むのはまず間違いのないところだろう。私の場合、模写の課題で迷わず選んだのがクレーであり、最初に買った「分厚い」画集がマチスであった。晩年まで衰えることのない探求心と制作意欲は優れた芸術家の証しでもあるが、マチスとクレーはその点においても傑出していた。「生の直感」に導かれたマチス晩年の画と「死の予感」に導かれたクレー晩年の画。『新日曜美術館』のマチス展特集を観て、『マティス 画家のノート』とクレーの『無限の造形』を久しぶりに読んでみたくなった。もちろん上野には行かねばなるまい。マチス最後の大仕事、南仏ロザリオ教会にもいつか行ってみたい。
木枯一番。連日連夜書体制作。「文字ばっかり作って」という妻子の非難に胸が痛む。でもね、文字ばっかり作ってないといつまでたっても終らないのだよ、文字ばっかり作るのが私の仕事なのだよ。
凩や懺悔のことば胸にあり 茶門
花咲ガニと黒エビス。人目を憚らず、一時間かけて一杯の蟹を食べ尽くす。最後はカニ雑炊。長風呂したときのようなしわしわの指先が情けない。
朝六時起床。終日書体制作。すこし昼寝。なめこ玉子とアジのカルパッチョ。
愛着というものは結局のところ関与の深浅によっている。期間の問題ではない。窮屈な場所で何事かをなそうとすれば、角の立たない知、流されない情、通しすぎない意地を持たねばなるまい。知に働きがちで情に流されやすい意地っ張りな私は、物事に関わる際には常に相応の覚悟を必要とする。大学の坂を下りながらそんなことを考えた。
昨晩食べたとろろ汁のせいか、気は張っているのにお腹がゆるい。立ったり座ったりみなぎったりほとばしったり元気があるのかないのかさっぱり分からない。朝晩書体、その間多摩美。
秋の夜長にネット上にある自分の過去日記を読むというのは妙な気分のするものである。人ごとでないのに人ごとのような感じ。終日書体制作。晩にとろろ汁。
秋晴れ。今日は立冬、暦の上ではもう冬なのだが、秋への心残りが冬の一文字を使うのをためらわせる。一時中断していた自転車の練習を再開。書体のリリースも負けてはいられない。ラストスパートをどこでかけるか、かけられるか。spurtには、短時間全速力を出して走るという意味のほかに、発芽する、育つという意味がある。ペダルを漕ぎ出す瞬間、発芽する瞬間、どちらも起爆力が必要だ。プロジェクトの立ち上げに起爆力が欠かせないのはいうまでもないが、ゴールが近づくにつれ最後は「収束力」がものをいう。いかに収め、束ねるか。大事に育てた花であればこそ頭を悩ませもし、また楽しみたいとも思うのである。
妻子が作った小龍包を昼に食べる。終日書体制作。今週は大学が休みだったおかげで作業もはかどり、大幅に下回っていた目標生産ラインの尻尾が見えてきた。この坂越えたら人に会おう。人と会って美味しい酒を呑もう。秋深し、人恋し。
ひとつの業界に十年も身を置いていれば、そこがどれだけの広さと深さをもっているかおおよその見当はつく。逆にいえば、あちこちほっつき歩いてみれば、どれだけ狭くて浅いかということもあるていどは分かってくる。業界にはさらに派や閥というものが存在し、互いに張り合い歪み合っているのが常である。これがごく狭いフォント業界となれば、なおいっそうその感が強い。さて、前置きが長くなったが、そこのところを突破せんというのが『タイポグラフィ・タイプフェイスのいま』と銘打たれたシンポジウムの意図ではないかと思う。これまでタイプデザイナーが主語となって公の場で語る機会は極めて稀であった。タイプデザイナー自身が黒子であることを良しとし、雇用主はそれを当然のことと考えていた時代が長かったせいであろうか。私もその態度を潔しと考えていたし、ネットという半ば公けの場で日常をさらけだしているいまでさえ、その潔さにどこか惹かれるのは不思議でもある。活字の持つ公的な面と私的な面が私の指針を振れさせる。しかし実際活字にはその両面があるわけで、その配分調合を嗅ぎ分けて、ふさわしい場所に使用するのは、すでにタイポグラファの領分である。12月4日のシンポジウムでは、1960年代以降、日本のタイプデザインがどのような広がりと深まりをみせたのかという点に注目したい。
来春から子供が通うことになるY小学校へ散歩がてらの下見にでかける。学区割りの関係で、一番近い学校ではなく、ほぼ倍の距離にある小学校になってしまったのを懸念してのこと。その一番近い学校というのは以前Sちゃんの介助で何度も通ったK小学校で、二年前に校舎が大幅に改修された結果、見違えるように立派になり、K小学校へ子供を入れたいがために近所へ引っ越しをしたり、果ては偽りの住所を記入する親まで出たという。熟れきった柘榴の実を眺め、たわわに実る柿の木の下を通り、およそ25分ほどでY小学校に到着した。なんだかとっても素朴で良い雰囲気の学校だった。素朴さというものは、いちど失うと取り戻すことのできないもので、とくに幼少期には長く保ってもらいたい天然資源である。時間をかけて蓄えられた天然資源ほど貴重なものはない。
息子とじゃれあっていたら、ひょんなことで彼の肘を脱臼させてしまった。あまりの痛がりようにこちらも慌ててしまい、休日診療を行なっている整形外科を電話であたってみた。どこもあいにく今日は診療できないとの返事、最後にすがるような思いで長谷部さんに電話した。「なんとかしてみましょう」。まもなく長谷部さん宅に到着という地点で自転車の後部座席から「あれ」という声がする。振り返って見てみると、あれほど痛がっていた左肘を苦もなく折り曲げて「急に痛くなくなった」と言う。長谷部さんに事情を説明すると「子供の関節は外れやすいんですよ。うちの子も何度か脱臼しました。突然痛みがなくなったのは、自転車の振動で関節がはまったのでしょうね」。応急処置のテーピングをして頂きすぐに辞去。「おかあなんて言うだろうね」などと笑い合いながら帰途につく。「ごめんな、痛くして」と息子に言うと、「いいよ何度も謝らなくて」と優しく返された。
みかんがうまい。舌で感じるというより内臓にしみわたるようなおいしさだ。なんだか頭まで良くなったような気がする。十個くらい食べたらあれだな、すこし若返るんではなかろうか。
のどの痛みに桔梗湯トローチがなかなかよろしい。深夜にホット蜂蜜レモン。終日書体制作。