庭の草木瓜が紅い花を咲かせている。「世間には拙を守るという人がある。この人が来世に生れ変るときっと木瓜になる。余も木瓜になりたい」(夏目漱石『草枕』)。この木瓜はおそらく地を這う草木瓜だろう。昨日の「もっとことばを」にひいた子規の言葉と対比させると、両者の拙なることへの思いの違いが感じられて興味深い。子規は決して拙を覆わなかった。拙速の人、といってよい。
初旅や木瓜もうれしき物の数 子規
木瓜咲くや漱石拙を守るべく 漱石
草木瓜の草に覆はる日和かな 茶門
庭の草木瓜が紅い花を咲かせている。「世間には拙を守るという人がある。この人が来世に生れ変るときっと木瓜になる。余も木瓜になりたい」(夏目漱石『草枕』)。この木瓜はおそらく地を這う草木瓜だろう。昨日の「もっとことばを」にひいた子規の言葉と対比させると、両者の拙なることへの思いの違いが感じられて興味深い。子規は決して拙を覆わなかった。拙速の人、といってよい。
初旅や木瓜もうれしき物の数 子規
木瓜咲くや漱石拙を守るべく 漱石
草木瓜の草に覆はる日和かな 茶門
花粉症なにするものぞ。家族三人で石神井川へお花見。三分咲きの桜を見ながらおにぎりを食べる。桜、桃、連翹、辛夷、木瓜、日向水木(ひゅうがみずき)。おととし来たときに咲いていた三椏は刈り取られていた。お弁当を平らげたあと子供とかくれんぼ。私が身を隠す姿は盗人の風情そのものである。
花すこし流れる川の匂ひかな 茶門
をちこちの花咲きそめしかくれんぼ 同上
旦那さんの転勤で三重県へ引越す友人の送別会。わが家にYAG亀島美術研究所時代の先輩後輩が子供を連れてやってくる。最後いつ会ったのか思い出せないほど久しぶりの落合さんも来てくれた。ゆうちゃん手製の春キャベツと豚肉のトマトソース煮が美味。
ひどい睡眠不足。夜毎ペルシャと長安を行き来しているせいだ。もちろん書物のなかでのお話し。春の「妖気」に誘われて、石田幹之助の『長安の春』に手を出したのがいけなかった。AXISフォント販売にともなうホームページの更新準備。
数時間おきに頭を切り替えて内容の異なる仕事を少しずつ進める。とっても能率が悪いし、苦手な仕事の進め方でもある。一気呵成にいかないものか。と並列処理に向いていない頭は思う。複数のアプリを立ち上げて複数の仕事を同時並行的に進めていると、突如システムごと落ちるMac OSに近い。たまにはクラッシュしたほうがいいのだ。お茶が飲める。
仕事場より屋外のほうがはるかにうららかであたたかい。大きく膨らんだ木蓮の蕾がまばゆいほどに白い。蜂がよぎるし風は匂うし仕事をしてても気はそぞろ。
ふりやまぬ雨が沈丁花の香りをいっそう濃いものにしている。妻とお義母さん箱根へ一泊旅行。ポーラ美術館はあいにくの天気にもかかわらず盛況だったとか。AXISフォントの販売がひと段落ついた頃、私も気ままなひとり旅に出かけられたらいいな。
茶を飲み、書を読み、文を書く。イラク空爆開始から五日目。個人の欲望は国益へとすりかえられ、国益は正義へとすりかえられている。しっぺ返しはかならずある。問題はどの程度の規模になるかだ。
おとついの春分の日をさかいに、山のお寺の鐘が鳴るのメロディにのって流れる「子どもは早くお家に帰りましょう」のアナウンスが五時から六時にかわった。 「帰りなんいざ。田園まさにあれなんとす。なんぞ帰らざる」と呼びかけたのは陶淵明だが、田んぼも山もお寺の鐘もなく、空爆で家さえなくした子供たちにはどこへ帰れといえばいいのか。空襲警報が流れるような時代などまっぴら御免だ。
妙なる人。高野山のふもとで育ち、幼時より真言密教の空気を体に染み込ませ、真言陀羅尼をそらんじ、マリアの石像を彫るキリスト教信者。和歌山での教職を捨て、愛知県の芸術大学に入学したときはすでに30歳。空間デザイン担当教授のなかに建畠嘉門の名前を見つけて、これは彫刻家の建畠大夢と関係があるのではと思ったことが芸大受験のきっかけだったと言う。四年間を同級生として過ごしたはずなのに知らないことばかり。お別れの席でこんな話しを聞くなんて。長先生と同級生四人だけの送別会。たえちゃん、ふるさと和歌山でのご活躍期待しております。たえちゃんの風貌が学僧のようだと気づいたのも昨晩のことだった。迂闊なものである。
ごたごた荘「旅立ちの会」。息子の卒荘ではないにも関わらず泣いてしまった。不覚にもぼろぼろ涙がこぼれた。幼い子供にとっての数年間というのはなぜこうも胸を熱くさせるのだろうか。スライド上映会のバックで流れていた曲がまたいけない。オフコースの『言葉にできない』はないだろう。狙い撃ちのようなものだ。アキラさんの声がうわずったこと、あれが一番いけない。嗚咽はないだろう。かすんだ視界のはしっこに、ハンカチで涙をぬぐっている嫁さんの姿が入ってきた。あれもいけない。しょっぱなのショーウンのギターからしていけない。哀愁を奏でやがった。梅の花だっていけない。あんなにはらはら散られてはたまらない。それもこれも、みんな春がいけない。
やすやすと事を告げらる花の下(もと) 茶門
家具や食器などをデザインしている塚本さんの事務所へ遊びに行った。出来上がった物の佇まいとそれを生み出し得た考え方に感心することしきり。
帰りに高田馬場へ寄り道して、早稲田通り沿いの古書店を駆け足で探索。店主が見ていたテレビでイラク空爆開始を知る。一気に憂鬱な気持ちになる。
四世同堂。四世代同居を意味する中国産の四字熟語である。私は「死生同堂」だと思い込んでいた。奥さんの祖父母兄弟その子供たち合わせて十数人と同居している友人がいる。これを聞いて驚くとともに、うらやましいと感じる人も少なくないのではなかろうか。世代という縦を貫く四世同堂に対し、こちらは縁者という横の関係にも広がっている。うらやましさの依って来たるところは、「堂」の閉鎖感に対する「長家」の開放感をイメージさせるからではないかと思う。
鳥の声と日の光に精彩が感じられるようになってきた。とはいえ来週前半まで気温は低いようなので、もういちど灯油の補填が必要かもしれない。福島原発トラブル隠しによる点検のため大部分の原子炉が停止中。予備電力の貯えがほとんどないようで、今夏には20%の電力不足が予想されている。いっそ東京一都市がひと夏クーラーなしで過ごしてみたらどうだろう。かえって涼しかったりして。
小雨。ドイツのライノタイプ社に勤務する小林さんが一時帰国。同業友人が新宿に集まり、高島屋6階のアラン・チャン「茶語」にて喫茶。平日の午後三時だというのに7名が集合。イタリックとオブリークの違い、欧米のタイプファウンドリーやタイプデザイナーの最近の動向など。
朝、電話が鳴るも起きず。昼はオムライス、夜は山かけネギトロ。好物につき食べ過ぎやむを得ず。読み残しの本を次々読み倒す。隆 慶一郎『柳生非情剣』。殺陣のお好きな方はぜひ。息子と忍者ごっこ。先に手裏剣を放ってきたのは息子のほうである。裏柳生にしびれた私が仕掛けたのではない。うぬ、背後を狙うとは卑怯な。地蔵に化ける術を得意とする四歳の忍びは、我が秘術「骸骨の涎(よだれ)」に逃げまどった。夕刻より雨。
屑鉄を隠す子供ら春の雨 茶門
こまごまとした仕事を片付ける。昨日の残りのカレーに葱を足し、醤油とだしで味をととのえ、片栗粉でとろみをつける。昼はカレーうどん。食後に嫁さん手作りのおはぎをパクつく。カレーのあとに食べる小豆餡のおいしいこと。
昨日今日とで、仲介役をひきうけたふたつの役目をほぼ終えた。ここ数カ月の気掛かり事だったので、小さな役目とはいえひとまず安心。そのほかの頼まれ事や自分自身の雑用をまとめて片付ける。さっぱりして気分がよい。雑事こそ大事の敵であり、瑣事こそ大事にしなければいけないこともまた事実。
超越紙。照明器具のプロトタイプを制作しているパートナーが取り寄せた紙の名前である。紙にガラス質の膜をコートし、耐熱性、撥水性を高めた紙だという。絶対矛盾自己超越。超越したらすでにそれは別のもの。「超越文字」などありえない。
同業の友人と池袋にて昼食。互いの近況報告。新しいプロジェクトの端緒はスリリングなほどよい。そのあと両国タイプラボへ。先の友人もそうだが、書体への思い入れが強い人との会合では時を忘れて話し込んでしまう。というのが遅刻の理由です。佐藤さんごめんなさい。待ち合わせ時間に10分遅れて現われた友人を注意した四時間後、私は佐藤さんとの約束の時間に間に合わないことを悟った。遅刻を注意した若い友人を前にしての、その若い友人の携帯を借りての遅刻謝罪電話は、情けないことこのうえなかった。
ようやく春らしくなってきたが気温はあいかわらず低い。資料をかかえて部屋の暖かい場所へと移動する。移動の際おこなう資料の選択と閲覧書写後の資料の返却という一連の作業はなかなか具合が良い。仕事が目にみえて進む(ような気がする)。ネックはコピー機がないこと。コンビニまで自転車を走らせなければならない。これはかなり苦痛。いちいち出かけるのが面倒なので、まとめてコピーをとることになるのだが、これがまた厄介の元なのだ。昨日、一店目のコンビニで待ち人ふたりの視線に堪えかね、途中で別のコンビニへ移るも、さらに強力な待ち人現わる。私の左うしろにぴたりと貼り付き、満面に笑みをたたえつつ背後から首を伸ばすこと甚だし。老婦人の笑顔から私の手元まで四十センチ足らず。持ち込んだ資料の大きさがまちまちなため、縮小率の変更などに手間取る。焦りと怒りが私の理性を狂わせる。失敗せる複写紙夥し。
久しぶりにごたごた荘の布団干し。子供たちも安らかに昼寝ができるだろう。今年はいろんな風邪をひいたせいか、例年にくらべて花粉症の症状が軽い。
東京湾へ注ぎ込むいくつかの河川でボラが大発生。原因不明。天敵カワウの餌食となる。子供を伴って三宝寺池と石神井図書館へ。風つよく雲うごき明と暗がしげく交代する。ミスタードーナツで昼食。
モスバーガーに資料をもちこみ原稿書き。珈琲一杯でねばるねばる。柔軟運動まではじめる始末。読みたい本をぐっとこらえて持参しないことが肝要。
冷たい雨がそぼ降る。顔面から血を流したおじいさんが踏切りをこじあけてこちらに向かって歩いてくる。幽霊ではありません。今朝ほんとうに見た光景です。ホラーですが法螺ではありません。
しんしんと春の雨ふる野づらかな 茶門
「しんしん」は、深深とも沈沈とも書く。暗くて寒い様子をいう。春の雨を形容するのに使うことになるとは思わなかった。
啓蟄。こんなに寒くちゃ虫も出てこない。うす暗い中庭に野ざらしになった雀の死骸。五歳頃の鮮明な記憶。目をそらすことができなかった。
のたれ死ぬ春の雀の腸やひしめく虫のいよよ華やぐ いさを
寒さゆるまず体こちこち指はかじかむ。まったく春は名のみだ。谷の鶯は、歌いだしたい気持ちを「時にあらず」とこらえたが、あんまり悠長に構えていると春はさっさと行ってしまうよ。好きに鳴いたらいいじゃないか。ほら、鳴くはいっときの恥、鳴かぬは一生の恥っていうじゃないですか。ちょっと違うような気がするけどまあいいや。
パーティというものは居場所を見つけるのがまず困難で、途中で抜け出すのはさらに困難である。昨日モリサワ賞タイプフェイスコンテストの表彰式と小宴に出席。所在なく時を過ごしたが、友人の晴れやかな姿が見られたのでそれでいい。コンテストを裏で支えてこられた皆さま方お疲れさまでした。18年間のコンテストの集積は10年後には新たな評価がなされることでしょう。
桃の節句。由来は中国、1650年前のこと。「書聖」王義之は、永和九年(353年)会稽(現在の浙江省紹興県)の蘭亭に名士を招いて宴会をひらき、曲水という川に酒の盃を流して、釣り上げた盃を飲み干し即興の詩をつくるという遊びに興じた。詩は『蘭亭集』という詩集にまとめられ、王義之みずから序文の筆をとった。これが世に名高い「蘭亭序」である。
この曲水の宴が催されたのが三月三日で、のちに日本に伝わって平安貴族の雛かざりと重なり、桃の節句(雛まつり)へと向かった。その典雅さが王朝人の趣味によく合致したのだろう。より信仰的呪術的な「流し雛」の風習も今に残る。王義之の遊びは、日本人の禊ぎと習合したのである。
丁々と散て発止と桃の酒 茶門
AXIS誌102号の編集後記でアートディレクターの宮崎さんが、AXISフォントの販売時期についてふれている。「AXISfontもいよいよ初夏には発売予定。皆さまにも使っていただけるようになりますので、乞うご期待!」パブリックなものとしては初の販売時期に関するアナウンス。
昼前より雨。午後から家人外出。仕事場の本の整理。現在ただいま関心度のたかい本を手もとの棚に移しかえ、ついでに必要箇所を拾い読み。積ん読してあった本が意外なほど役に立つ。