昨晩名古屋の友人がうちに一泊。夕食は新宿で。その食事の席に友人の元同僚がやってきた。私が会うのは二度目、五年ぶりのこと。友人の同僚という存在には、なんともいえない「不思議に淡い懐かしさ」というものがある。そんな妙な気分に襲われた私は、ぐびぐび紹興酒を飲むしかなかった。
昨晩名古屋の友人がうちに一泊。夕食は新宿で。その食事の席に友人の元同僚がやってきた。私が会うのは二度目、五年ぶりのこと。友人の同僚という存在には、なんともいえない「不思議に淡い懐かしさ」というものがある。そんな妙な気分に襲われた私は、ぐびぐび紹興酒を飲むしかなかった。
一年越しの歌仙を巻き終えた。昨春タイプデザイナー日記に掲げた変てこな俳句に端を発する。「間、髪を入れず」とはほど遠い、しかも電子メールを使っての両吟半歌仙。定石からもところどころ外れている。しかしながら、初めての連句は想像以上に多くのものを私にもたらしてくれた。今日、新宿にて、変てこな発句に脇を付けてくれたそのお相手と一年ぶりに再会した。古賀さん、挙句の果てとは、静かで明るく、とってもひらけた場所なのですね。
ほつほつと夜は明けゆくか庭の梅 茶門
体調七割方回復。咳き込むと腰に響くのがちょっと辛い。一日ニ杯以上欠かさず飲んでいた珈琲も、ここ五日ほどまったく飲んでいない。飲むと体が冷えるのだ。雑炊とお粥の日々も今日でお仕舞いにしたい。
節々の痛む体をひきずるようにして六本木へ。AXISフォントの契約に関する打合わせ。あとは双方の歩み寄り次第。いちど平熱近くまで下がった子供の風邪がぶり返し、いつのまにか39度1分まで上がっていた。
体調悪し。メールチェックのために起きる以外は布団のなか。悪寒がひどく、とくに手足がよく冷える。枕元には電気ストーブ、足元には石油ストーブ、手にはホカロン、首には手ぬぐい、布団のなかには湯たんぽ。それでも寒い。
子供の熱が40度を越えた。ときどき幻覚の症状が見られ、うわ言をいっている。夜になって熱が下がり、快方へ。やれやれと思う間もなく、今度は私に本格的な風邪の諸症状が現れはじめる。夜半より悪寒と頭痛。
穏やかな日和。家族そろって風邪ひき。息子が白目をむきながら、足がいたい〜めがまわる〜というので熱を計ってみると40度近くある。動かせそうにないので、電話で本人を連れて行けない事情を説明して、近所の小児科で薬を処方してもらった。待ち合い室は、風邪ひきの人々でごったがえしている。診察の番がまわってくるまで約二時間。こんなこともあろうかと持参してきた『芭蕉七部集』をつまみ読み。
晴れのち曇り。雲が垂れこめるにつれ風が強まる。梅の蕾はまだ固い。綻びそうでほころばない。兼好と漱石を啄(ついば)む。鶯はやってこない。
腕づくでひきよせ嗅ぐや梅蕾 茶門
ごたごた荘と自宅を往復する間に、粉雪は牡丹雪へとかわった。その間30分。体の前面には白い海苔が一枚。行きは風流、帰りは不粋。十日続いた胃腸風邪は、上方へと移動して喉に。長期滞在お断り申し上げます。
蓋すれば蓋につみけり牡丹雪 茶門
指先のしびれ、といっても身体の不調によるものではなく、iBookの漏電が原因。漏電がPowerBooK G4で問題になっていたのは聞いていたが、iBookも同様か。トラックパッド上で起こるので防ぎようがない。ときどきチリチリする。
学問のさびしさに堪へ炭をつぐ 誓子
青年期特有のナルシシズムが濃厚な山口誓子24歳の句。石神井に住む年男の場合は、淋しいわけでも何かに堪えているわけでもないが、「炭をつぐ」という気分だけは理解できる。蕪村の白炭をひとかけいただいて、
白炭や火を継ぐごとく日を綴る 茶門
毎朝掛け替えてきたトップページの扁額「もっとことばを!」も間もなく350回になろうとしている。松岡正剛氏の『千夜千冊』とはもちろん比較にならないが、氏の「これは私の千日回峰行なのだ」の言葉を杖に、三分の一ほどの行程を私も終えた。あと二年、扁額千枚でひとまずトップページからは額を下ろすことにしたい。思えば恥ずかしい自画自賛なのであろうが、千枚揃った暁には、日記と扁額にリンクを張って、自分の独立後の四年間を振り返る手掛かりとしたい。だからこれまで日記/ことば格納庫の相互リンクをリクエストしていただいた方、あと二年お待ちください。それまでには次の「方丈の間」も用意しなければならないのです。写真館と書籍案内を昨日更新しました。梅と数寄の取り合わせです。
負け戦(いくさ)。はなから勝負はみえていた。しかし、しかしだ。郷里尾張の味をもってしても防ぎきれなかったこと、さらには、手加減されての敗北だったことがいかにも口惜しい。電脳機器が集中している「本丸」を守るのが精一杯だった。その本丸に手負いの兵士がひとり運び込まれた。我が息子である。風邪気味なのに加え、今日の戦を心待ちにするあまり、気分の昂揚によって息も絶えだえなのだ。なぜか左目が腫れている。戦場からは、怒声、雄叫び、泣き声に交じって、恐ろしげな破壊音が聞こえてくる。総勢約25名。子の刻(午後十一時すぎ)「今日のところはこのへんで勘弁してやろうか」と言わんばかりに一斉に潮がひいた。安堵と屈辱。城外で勝鬨(かちどき)の声がする。戦は終わった。肝が冷え、胃が縮んだ。腰と喉をやられた。昨日の白昼夢は幻ではなかったのだ。付け加えておくと、猛者どもは男でも子供でもない。女将たちであった。再戦を期す。
刮(こそ)げとる味噌も饂飩も鍋の焦げ 茶門
なつかしや宴果てたる霜の朝 同
おーさぶ、こさぶ、山から小僧が飛んできた。ごたから酒豪がやってきた。我が家にてごたごた荘の新年会。仕事場を死守しなければ。あっ、あぁっ、そっそれは、とっとっとっと、ちょぉっとちょぉっと。おじさん、おなかと腰とのどが痛いのよ。だれかぁ〜だれかいませんかぁぁぁ‥‥ はっ。白昼夢か。玄関のベルが鳴った。最初の客がやってきたようだ。兵共(つわものども)の宴がこれから始まる。せめて、せめて万全の体調で臨みたかった。
大好きなお茶と珈琲を体がうけつけない。やむなく梅干しを齧り、白湯を飲む。ことばすくなし。ものおもうこと多し。
湯冷ましを梅干粥に足しにけり 茶門
昨日の昼と晩は雑炊、今日の昼は具のないインスタントラーメン。食欲はあるのだが、胃腸が張って食物が収容できない。ふだんの半分くらいの分量で満腹になってしまう。こうしてノートパソコンに向かっていても腹に力が入らない。弱々しくキーボードを打つ。ところで、私の日記に恩師という言葉が頻出することにお気づきかもしれないが、存命の師は二人である。こんなことを教わった。鎌倉の師からは「肚を括ること」を、文字の師からは「腰を据えること」を。教外別伝(きょうげべつでん)、不立文字(ふりゅうもんじ)。心身のおぼつかないこういうときにこそ、師の教えが腸(はらわた)に沁みる。そんなわけで、今日の「もっとことばを!」はちょっとことばを控えめにしておこうと思った次第。
膓(はらわた)に春滴るや粥の味 漱石
はーるよこい、はーやくこい。「紅い鼻緒」を結ってあげないと、AXISフォントを表に出してやれない。AXIS誌上でのお披露目から一年と四ヶ月、試用版のダウンロード開始からは、ちょうど半年が経過した。その間契約書の草稿をなんど書き直したことか。はたして手作りの鼻緒でよいものかどうか。いずれにしても、わたしの娘は、おんもへ出たいと待っている。
春よ来い鼻緒すげかへ旅支度 茶門
昨晩より嘔吐感に悩まされる。ここ数日続いた夜なべが祟ったか。湯たんぽを用意して早めの床につくが、悪寒のせいでなかなか眠りにおちていかない。朝飯をぬいて、昼は梅干しのお粥。
私にとって成人の日は1月15日である。10年前の1月15日、名古屋から東京に居を移した。もりの君の車に荷物を積み終え、名古屋を出る直前に自分の眼鏡を踏んづけた。底辺のない平行四辺形の眼鏡。私は半泣きだったが、不思議とレンズは割れなかった。もりの君に「下宿までの道を指示してくれ」と言われても、間抜けなオウムのように私は「環七、環七」を繰り返した。それでもなんとか早朝江古田に着いた。松盛荘の風呂なし四畳半が私の出発点である。そして初めての就職先は、そのまま私のタイプデザイナーとしての日々の始まりとなった。私にとって成人の日は1月15日でしかありえない。ほどなく顔真卿の臨書を始めた。木雲、掲句添削ありがとう。二畳分ほど頂戴します。
書初めは顔真卿也四畳半 茶門
木雲、西村とともに北鎌倉在住の恩師を訪ねる。ガラス工芸店に併設された喫茶店のオープンエアーで珈琲を飲む先生に近況報告を済ませ、まずは東慶寺へ。満開の臘梅が甘い香りを境内に漂わせる。昼下がりの半月。快晴。鳥の声。早くも紅梅が一輪綻んでいた。松ヶ岡宝蔵で、和辻哲郎宛漱石書簡、良寛の書、禅忠の画を楽しむ。館内の寒さが心地よい。
をとたてず洟をすゝるや東慶寺
冷えきった体を温めるため御茶屋できつねうどんと熱燗を流し込む。浄智寺へ。臘梅と茅葺きの屋根。無気味な表情をした布袋石像の指差す方へ歩をすすめる。三椏(みつまた)。浄智寺を出、坂をすこし登ると、左手に石を穿った50メートルほどのトンネルがあり、そこを抜けると小倉遊亀、小津安二郎の住んでいた家のまえに出る。ははあ、この二人、異空間へ通じる千と千尋のトンネルをくぐることによって彼岸と此岸を往来していたわけだ。
昨夕刻より新宿の『隠れ野』という串焼き屋へ。店名どおり密談にふさわしい空間で、男四人が膝つき合わせて「デザイン教育におけるタイポグラフィの意義」なるテーマで意見を交わす。日本酒「男山」のつまみにチャンジャとタコわさ。タイプデザインとタイポグラフィの分野に女性が少ないという指摘もあったが、いかんせん「男山」では。やはりここはクリスタル・ゴブレットにワインか。
正確かつ適確な言語表現を求めるふたりの知人。私がメールのやりとりでつかった「京のタイポグラフィ」という曖昧な表現に太郎さんからお叱りを受け、木雲からは昨日書いた日記の仮名遣いに添削がはいった。
をさまりぬころ→をさまりぬるころ
ときめきする →ときめかする、ときめかせる
らあめん →「老麺」なら「らうめん」、拉麺なら「らーめん」
ぜりい →ぜりひ
熱い風呂 →熱き風呂
「をさまりぬ」と「熱い風呂」は明らかに私の間違い。「ぜりひ」はどうなんだろう。清少納言の時代に長音記号はないはずなので「らーめん」は却下。風趣にまさる「らうめん」を採用させていただく。「ときめきする」は、実際に『枕草子』で用いられている表現である(第二十九段)。
さてもうひとり昨日の日記について指摘をしてきた友人がいる。「なにはずに咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」に、身近な人物の名前が隠されているではないかという指摘。私はまったく気づかなかった。恐ろしすぎる指摘なのでとてもここには書けない。
いみじきふつか酔ひややをさまりぬころ、こころときめきするもの。しじみの汁。味噌らあめん。珈琲ぜりい。熱い風呂はさらなり。
「出し惜しみしない」と「あけっぴろげ」は似て非なるもの。「出し惜しみ」せず「あけっぴろげ」にしないよう日記を書くのはなかなか難しい。そこで昨日のように書きかたを趣向してみたりもするのだが、そう上手くいくものでもない。たかが日記、されど、である。『枕草子』みたいに好みを書き連ねる方法も素敵だなあ。「あはれ」み「をかし」んではいるが、出し「をし」んでいない。
冬はつとめて。雪の降りたるはいふべきにもあらず、霜のいとしろきも、またさらでもいと寒きに、火などいそぎおこして、炭もてわたるもいとつきづきし。晝になりて、ふるくゆるびもていけば、火桶の火もしろき炭がちになりてわろし。
最後の「わろし」で平手打ち。ぴしゃっと好き嫌いを打ち出すことによって趣味と批評を両立させている。だから水際立っている。趣味と批評は、両輪であり両軸なのだ。次の和歌は、清少納言の時代に手習いの最初の手本とされていた歌である。『枕草子』第二十三段にそのエピソードがみえる。
なにはずに咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花
清少納言の声を聞いてみたい。彼女の書とその手を見てみたい。ぴしゃりとやられてもいいから。いや、正直に書こう。ぴしゃりとやられてみたい。わたしは気が強い女性に弱いのだ。しかし、痛い目にあってきたせいなのか年のせいなのか分からないが、どうも気のやさしげなる女性にこころ惹かれるものを感じるのである。ん? これってもしかしたら「あけっぴろげ」
快晴、散髪、新年会、鮨、日本酒、二軒目、バー、バーボン、ミモザ、タイポグラフィ、侃々諤々、顔真卿、活字、平野富二、ジントニック、むにゃむにゃ、、最終電車、熟睡、乗り過ごし、よろよろ、忘却、宿酔。
息子とともに石神井図書館へ。予約しておいた『墨』のバックナンバー10冊と、『鉄腕アトム』のビデオを借り出す。帰りは三宝寺池へ寄り道。この寒空のもと池の脇では翁らが将棋を差している。四組の対局にそれぞれ三人ほどの見物客。石神井公園はさまざまな楽器の練習場にもなっており、俳句吟行会や写真撮影会もよく催されている。アマチュア画家と釣り人は殊に多い。琴棋書画のうち見かけないのは書だけである(さすがに琴を持ち込む人はいないようだが、横笛の練習をしている人は見たことがある。なんとも雅びな桜の季節の出来事だった)。さて書のことだが、吟遊詩人ならぬ吟遊書人が石神井公園を徘徊していたら耳目を集めるに相違ない。身を晒すより屋に籠るのが性にあっている私には到底無理だ。炬燵にもぐって青木正児の『琴棋書画』でもめくっているほうが断然よい。横道ついでに、『琴棋書画』に「顔真卿の書学」という短文がある。張旭に筆法を請う顔真卿、顔真卿にひれ伏した懐素がちらりと登場する。屋漏痕。壁のしみからインスピレーションを得たダ・ヴィンチに通ずるものがある。そうか、屋に籠ってもよいのだな。「痕」に何かを感じられるなら。
翁打つ駒の響きや冬木立
自分の居場所を自宅に求めるのは不可能と悟り、池袋のリブロ書店へ逃げ出す。さて、まず目についたのは隔月刊『墨』の最新号、巻頭特集は「顔真卿を極める」。臼田捷治氏の論考「現代のデジタルフォントと顔真卿の楷書」、そのインタビューに字游工房の鳥海さんが登場。今春発売予定の游築見出し明朝が「顔体の気」を放っている。雑誌コーナーをぐるりとひと廻りして、売れ筋文芸書のお立ち台へ向かう。大岡信の『折々のうた365日』。朝日新聞に連載された6000近くの詩歌俳諧のうち、365日分を大岡氏みずから抄出。新書版では手を出しかねていたのだが、岩波書店がいい企画を実現してくれた。これは売れるだろう。詞華集は広く読まれてこそ意味がある。お手軽な日本語本を何冊も流し読みするより、この本にひたってみたほうが日本語の面白さを何倍も楽しめるはず。などと独りごちながら二階の美術書コーナーへ。こちらもぐるりひと廻り。永原康史著『日本語のデザイン』と雑誌『Web Designing』を購入。『Web Designing』の特集は「欧文タイプフェイスのプロファイル」。Exclusive Fontsの項もある。その特集の監修が『日本語のデザイン』の著者 永原康史氏であったことにも興味をひかれた。たっぷり3時間。書店は最高の居場所だ。気分をよくしたところで年頭所感。適度に負荷をかけつつ適度に息を抜く。多くの人から気を浴びつつ、時には自らも気を吐く。そんな一年になればいいなと思う。
ところで私は『折々のうた365日』を買わなかった。ひたるどころか溺れてしまうからだ。いますこし楽しみは「お取り置き」にしておく。
書初めや手本手強き顔魯公
東京は霙に近い雪が降っている。ひと足先にお正月モードに切り替えた嫁さんのおかげで、今年ものんびりだらだらの三ヶ日とはいかなかった。ベースキャンプにしようと思っていた居間の炬燵は、ほぼ制圧された。
ひさかたの人の便りはみぞれけり
年内に片付けてしまう予定だった仕事を二日遅れで完了。これで正月気分をすこしだけでも味わえるだろうか。
2003年-----
EXTENDED BODY:
新年あけましておめでとうございます。はて。年々「あらたまる」という意識が薄れていくのはなぜだろう。これはまずいと息子の手をひいて近所の長命寺へお詣りに行ってみた。家族一同みな元気でありますようにと手をあわせてみたものの、いっこう気分はあらたまらない。それもそのはず。ジャージ姿のサンダル履きでは、改まるものも改まらない。さて。「新玉(あらたま)の」は、年月にかかる枕詞。下句の「新玉」はもちろん四歳の息子のモノ。
我先にちんぼ飛込む初湯かな