Type Project —visible, but invisible.

もっとことばを

未来篇 (2005.4/4 更新)


■未来に何かを起こすには、勇気を必要とする。努力を必要とする。信念を必要とする。その場しのぎの仕事に身を任せていたのでは、未来はつくれない。
ピーター・ドラッカー『チェンジ・リーダーの条件』より

このたたみかけるような口調がドラッカーの必殺技である。仕事に追われているときや気持が萎えているときには敬遠しがちなドラッカー節も、前向きな気分のときにはよいビタミン剤である。昨年末から「未来志向」をタイププロジェクトのキーワードにしてきたせいもあって、足りない栄養を体が欲するように、今の私の脳にはドラッカーの言葉がふだん以上に効いてくる。「リスクを伴うものでないならば、そもそも、未来のためのビジョンとして現実的ではない。なぜならば、未来それ自体が不確実であって、リスクを伴うものだからである」という言葉は当たり前のことを言っているだけだが、このあとに続く一節が私に響いた。「したがって、ビジョンに対する全人的な献身と信念がないかぎり、必要な努力も持続するはずがない」。(2005.4/4)


■人が集まるところに仕事が集まる。 アノニマス『アスクルカタログ』表紙より

「人が集まるところに仕事が集まる」というアスクルのコピーはたしかにあたっているが、集まってくる仕事が良い仕事かどうかは保証のかぎりではない。事実はむしろ逆の場合が多い。雑多な請け負い仕事に追われて、良い仕事の機会を逃してしまうという最悪の状況は珍しくない。招かれざる客がもたらす望ましからざる事態とでも言おうか。試みに、アスクルのコピーを次のように言いかえてみたらどうだろう。
「仕事が始まるところに人が集まる」「仕事を始める人のところに人が集まる」自分で仕事を決めるというのがこの言葉の核心である。良い仕事を自ら画策し完遂することによって次の仕事を引き寄せ、さらに良い仕事をやり遂げるという良循環・好環境をつくりあげる。こんな仕組が作れれば組織は安泰なわけだが、道のりは険しく終わりがない。果てしない道のりだからこそ同行者が必要なのであり、険しいがゆえに同志が必要なのである。(2005.3/4)


■モダニティ(近代性)とは、「継続するプロジェクト」である。
 ユルゲン・ハーバマス『Harbermas and Unfinished Project of Modernity』より

 私にいくぶん理屈っぽいところがあるとすれば、二十代の後半をTさんに鍛えられたせいかもしれない。タイポグラフィ、デザイン、芸術に関する論戦で上司のTさんにくってかかり、例外なく容赦なく撃沈された。私が会社を去ってから回数は減ったものの、ときに酒場で、ときにメールで、T氏による論理的思考法の鍛練はいまに至るまで続いている。いわく「雑誌に寄稿した(T氏の)論評を読んでコメントせよ」。たまたまその論評が私にも関心のあるテーマだったこともあり、論評を二度読んで次のような感想を書き送った。

 KinrossのModern Typographyを読むまえのコメントは、少々性急にすぎるような気もしますが、とりあえず自分の問題としてすこしモダンについて書いてみます。
 「モダン」を特定の様式として捉えることは困難です。
近代化の過程で失ったものを回復するための行為から生まれたものを総称してモダンと呼ぶのが妥当かなと考えています。
 建築家は建築を通して、タイポグラファはタイポグラフィを通して、タイプデザイナーはタイプフェイスを通して、そのひとつひとつの仕事のなかでそれぞれの「モダン」を具現化していく必要があります。
 と同時に、Tさんが引用したKinrossの「この試論では、デザインという語を名詞ではなく動詞として理解する。すなわちひとつの活動として、ひとつの方法やプロセスとして理解する。このように考えれば、考え方というものも印刷された紙と同じように実在する現実なのだ」という言葉にも共感を覚えます。
 さらに、「モダニティ(近代性)とは、『継続するプロジェクト』である」
というハーバマスの主張には、我が意を強くさせられました。
 モダンは単にヒューマンに対置するような事柄ではありませんが、結果的には、歴史への敬意と人間的な要素を回復する試みから上質なモダンが生まれるのだろうと思っています。

 このあと四回ほど電子メールの応酬が続く。T氏の圧倒的な論理展開に対して、こちらは開き直りの一手。我ながら図太くなったものである。最後はたいてい「続きはおいしい酒でも飲みながら」ということになる。「タイポグラフィにおけるモダニティを探る」には、ちょっと気どった酒場でクリスタルゴブレットを傾けながらが似つかわしい(最後は喧嘩になるのだが)。これが私とT氏のあいだの十数年にわたる「継続するプロジェクト」なのである。(2005.2/16)


■デザインはサッカーのようなもの。つまり、シュートをしない選手は2軍に落とされる。
ペーター・ヴェーバー『エスクァイヤ日本語版』(2000.Dec.vol.14 No.12)より

 先日おこなわれたサッカーワールドカップ最終予選の一試合目となる北朝鮮戦では、辛くも日本代表が勝利をもぎとった。立ち上がりの先取点があまりにもきれいに入ってしまったせいか、徐々に日本人選手の動きが鈍くなっていく。ランキングでは圧倒的に劣る北朝鮮の選手の攻撃にたじろいでいるようにも見えた。点が入らないときには誰もが思う。ストライカーはいないのか。

 勝てるチームとは、点が取れる選手を抱えているチームのことである。しかし、必ずしも点を取れる選手がストライカーと呼ばれているとはかぎらない。決勝点を入れた大黒選手は、昨年のJリーグ日本人得点王とはいえ、ここまで日本代表としてのゴールはゼロである。じりじりするような試合の結末は、かなり劇的なものとなった。ゲーム終了間際、ふりむきざまに蹴った大黒選手のボールは、彼自身にとっては日本代表初ゴール、チームにとっては実に大きな一勝をもたらした。初ゴールが劇的である必要はないが、ジーコだってロナウドだって「初めてのゴール」があったはずだ。狙ったシュートでもぎとったゴールほど選手に自信をもたらすものはない。

 「シュートをしない選手は2軍に落とされる」と語ったのは、フロッグデザインの主任デザイナー、ペーター・ヴェーバー(1958年生まれ) である。90年代を代表する花形デザインファームといえば、グラフィックではメタデザイン、プロダクトではフロッグデザインと言ってもそれほど異論は出ないだろう。そのデザイン界の「レアルマドリッド」ともいうべき両チームが、21世紀このかた精彩を欠いているのは、ストライカーが去ったためだろうか、それともストライカーが多すぎたせいだろうか。2軍に落ちるのは、シュートしない選手だけではなく、いまやチームごと2軍(そう、まさしくファーム)に落とされかねない時代なのです。(2005.2/12)


■チームについては、まず仕事に適した型を選ぶということが決定的に重要だ。
 ピーター・ドラッカー『未来への決断』より

 バレーボールチームを思い浮かべてみてください。あなたがいる側のコートにはあなたを含め6人の選手がいます。バレーの試合をやると分かりますが、あのコートサイズには6人が最適です。ひとり増えただけで、コンビネーションどころか、6人チームと闘ってもおそらく負けます。ただし、頭数の多いサッカーやラグビーには当てはまりませんし、初心者同士の試合では多いほうが有利に働く場合もあります。
 ドラッカーのいう型は、もちろんプレイヤーの数だけではなく、プレイヤーの役割を中核に据えた「組織化されたかたち」を指しているはずです。いかなるチームにおいても、組織を有効に機能させるためには、役割分担を適確に行ない、チームの規模やコートの選び方を吟味した型の選択が、決定的に重要な要素であるとドラッカーは断言してみせたわけです。重要であるばかりでなく、チームづくりの「最初の一歩」なのだと。
 アタッカーとセッターの関係、サーブ/レシーブのローテーションシステム、相手コートのアキや弱いところを狙う戦法、守備のスペシャリスト「リベロ」の存在など、少人数チームについて考える場合、バレーボールのチームはけっこう参考になりそうです。(2005.2/9 開設)